谷亮子はなぜ嫌いな女1位に輝いたのか?

「女が嫌いな女ランキング」2010年度版が、週刊文春の11月11日発売号に掲載され、谷亮子が嫌いな女1位を獲得した。
ちなみに2位が日本のパリスヒルトン沢尻エリカである。アメリカの芸能ニュースの主役がパリスヒルトンだとしたら、日本の芸能ニュースの主役は沢尻エリカだ。これからももっと生意気なキャラで売り出して、主役を演じ続けてもらいたい。


さて、沢尻エリカが和製パリスヒルトンだ、という筆者の主張はさておきとして、
本論の主題は、谷亮子はなぜ嫌われるのか?、という疑問の考察である。
凡人達は普通の凡庸な理由を挙げるだろう、
柔道も政治家もやるなんてすべてが中途半端、
地位も名誉も手に入れたから、女たちの嫉妬を買った、
顔が足の裏のような顔をしていてブサイク、

などのような誰もが考えられそうな凡庸な理由を挙げるだろう。
勿論、これらの理由もあるだろう。
しかし、日本を代表する天才批評家である筆者の回答は、
彼女の記者に対する応答にある、と考える。
そこに彼女の嫌われる原因、無能さが凝縮されているように感じられる。

参院選後初となる臨時国会があった2010年7月30日、記者は初登院の谷亮子に、
「今の気持ちを柔道に喩えると?」
という極めて一般的な質問をした。
それに対し、谷は、
「失礼だろ!政治活動を柔道に喩えさせるような質問をするとは失礼だろ!」

と顔を真っ赤にし、鼻息を夏の空に響かせたという。
我をも忘れて、普通の質問をした記者を怒鳴り散らした、という。


しかし、この記者の質問は極めてまともなものである。
谷は柔道の金メダリストであり、スポーツの素晴らしさを広げるため、政治をより身近に感じてもらえるために政治家になった。なので、政治を国民に分かりやすく伝えるために、政治を自分の得意分野の柔道に喩えながら、国民に説明する、という手法が一番有効だったはずだ。彼女に国民が求めているのは、政治を柔道に喩えながら、分かりやすく解説する、というパフォーマンスだった。


谷は、政治を分かりやすい柔道に喩えられなかった時点でメタファーの才能がないばかりか、
笑いの才能もなく、政治家としての才能もない、ということを、国民にさらけ出してしまった。
すなわち、自分の無能さを、証明してしまったのだ。
柔道に喩えるなら小学生の大会ですら1回戦負けをしてしまったぐらいの実力である。


この点で谷は柔道界の羽生善治にはなれなかった。
将棋の天才・羽生善治は、さまざまな事柄を将棋に喩えて、わかりやすく将棋の本質を伝え、将棋を普及させることに成功している。「将棋はテニスに似ている」という彼の将棋をテニスに喩えたメタファーは100年後も残るメタファーだろう。

羽生善治と違って谷は、メタファーの手法を知らなかった、
喩えの手法を知らなかった、
笑いの手法を知らなかった、
言葉の基本を知らなかったのだ。


日本を代表する批評家・村上哲也は『新文学03』の『笑いとメタファー、キャッチャーとピッチャー』という論文で、記者に柔道喩えを求められた時に谷がした喩えの拒絶という行為を理論的に批判し、柔道喩えをした方がよいことを理論的に考察した。

「笑いとメタファー、キャッチャーとピッチャー――徳井義実後藤輝基「漫才コントをやりたい」(『ドリームマッチ2010』)について」で、村上哲也はお笑いを論じ、「メタファー・言葉遊びによって生まれたパラレルワールドをすぐ壊すのではなく、そのパラレルワールドの中で泳ぐような」漫才の手法について取り上げる。村上の特異性は、異端でありつつも常にポップな軽みの失われない比喩の世界を、慎重に細密に畳みかけていくことにある。この論考は村上自身の批評理論を著したものであるが、その文体をもって理論を実践にうつしていることが、氏の文章に華やかな興趣をもたらしている。 筆 松平耕一http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-451.html


村上哲也は「ゼロ年代の笑いの構造」『新文学02』(2009年)では笑いの本質、すなわち喩えはなぜ面白いのか?、あるあるネタはなぜ面白いのか?、ということを探究し、『笑いとメタファー、キャッチャーとピッチャー』『新文学03』(2010年)では、メタファーを使う際の技術について、探究した。


『ゼロ年代の笑いの構造』が村上哲也お笑い理論の基本編、だとしたら、『笑いとメタファー、キャッチャーとピッチャー』は、村上哲也お笑い理論の応用編だ。『ゼロ年代の笑いの構造』がストレートの投げ方講座、だとしたら、『笑いとメタファー、キャッチャーとピッチャー』は変化球の投げ方講座である。


村上哲也のお笑い理論、メタファー論の二大巨頭である『ゼロ年代の笑いの構造』『笑いとメタファー、キャッチャーとピッチャー』の二本の論文を読んでいれば、谷亮子は政治を柔道に喩えながら分かりやすく国民に、政治を伝えることができ、柔道の素晴らしさ、スポーツの素晴らしさを伝えることができ、政治を国民に親しみやすいものにできたはずだった。

レイコフの『レトリックと人生』を挙げるまでもなく、
村上哲也の『ゼロ年代の笑いの構造』『笑いとメタファー、キャッチャーとピッチャー』を挙げるまでもなく、
人間にとってメタファーを使いこなす能力というのは、一番基本的な事柄である。
柔道でいえば、挨拶や礼儀作法、という基本的な事柄である。
挨拶や礼儀作法すらできずに大会に参加したら、小学生の大会でも1回戦負けであり、非難を浴びるだろう。


しかし、メタファーの手法というのは非常に高度であり、
物書きならば三島由紀夫大澤真幸東浩紀
お笑い芸人ならば島田紳助松本人志、オードリー、など、
超一流の言葉の専門家しか、自由自在にメタファーを使いこなすことなどできない。


村上哲也のメタファーの技巧を打撃に喩えるなら三冠王を3度取った、
日本歴代最高の右打者と世評の高い落合だろう。
落合の内角のボール球、外角のボール球でもホームランにしてしまう打撃技術は、
三島由紀夫や村上哲也の天才的な文章の技巧を思い起こさせる。


さて、谷の柔道喩えができなかった大失態を中心に、ここまでわれわれはメタファー、笑い、そして言語について探究してきたが、政治を柔道に喩えられなかった彼女を誰も責めることはできないだろう。
メタファーこそ人間の能力の基本、ということを、9割9分の凡人達は知らないのだから。
彼女は、その知名度を生かして、これからは、政治を柔道に喩える技術を身につけて、政治を分かりやすく国民に説明してほしい。