立川談志が語る「デーモンの解消」とは何か?
村上哲也の講演の代表作『生態系論』
立川談志が石原慎太郎との対談で、
殺人事件が起こると、一般人は「いやねえ」などと言っているが、
実際は人々は心の中のデーモンを解消している、
と言っていた。
また、同様にして、立川談志の芸も、
われわれの心の中にあるデーモンを表現することにより、
われわれがそれに共鳴し、カタルシスになり、笑いが生まれる、
と語っている。
お笑いの専門用語を使うと、立川談志のこの表現活動は「あるあるネタ」
ということになるだろう。
誰もが心の中で思っているが、言語化していないことを言語化することにより、
見る者に共感が生まれ、カタルシスになり、笑いが生まれる。
それを「あるあるネタ」による笑いという。
たとえば、誰もが下の者をいじめたい、
という欲望はあるだろう。
相撲部屋や野球部の部活などではよく、
後輩いじめが問題になるが、
われわれ人間には下の者をいじめる本能が組み込まれており、
それを抑えることは不可能に近い。
下の者をいじめる描写を描いたお笑い作品としては、
松本人志の『ゲッタマン』(VISUALBUM、2003年)が有名である。
主人公の若手青年俳優は、上司から理不尽な命令を言い渡される。
青年俳優だけは、正しい意見をいうのだが、
「生意気だ」ということで、上司である現場監督に徹底的に殴られ、罵声を浴びせられる。
ここの作品によって、われわれには二つの共感、二つのカタルシスが生まれる。
第一に、若手青年への共感である。
誰もが上司や教師から理不尽に怒られた経験があるため、
理不尽に上司から怒られる描写を見て、共感が生まれ、笑いが生まれる。
第二に、上司への共感である。
誰もが下の者をいじめたい、というサディズムに近い欲望があるため、
理不尽に部下を怒る描写を見て、共感が生まれ、笑いが生まれる。
このように、どちらの立場にも共感できる「あるある」を描いた、
松本人志の『ゲッタマン』は、異様なまでのリアリティがある
松本人志の最高傑作の一つであろう。
『ゲッタマン』を見て、カタルシスを感じるのは、
立川談志の落語を見て、カタルシスを感じるのは、
自分も似た経験、似た心情があり、それと結びつき、共感が生まれるためである。
それを立川談志は「デーモンの解消」、
お笑いの専門用語では「あるあるネタ」、というのである。
同様にして、NIRVANAの歪んだギターにひたすら叫ぶ曲を聴いて
カタルシスが生まれるのも、「デーモンの解消」「あるある」のためである。
NIRVANAのカートコベインの叫び、ギターの歪んだ荒々しい音と、
自分の似たような心情が結びついて、共感が生まれ、快感が生じる。
私は、芸術の定義の一つとして、人々に快感を与える行為を挙げたい。
その定義にしたがうと、
立川談志の落語、松本人志のお笑い作品、NIRVANAの曲こそが
究極の芸術である。