ペナルティ批評とオードリー批評


【比喩・言葉遊びによって生まれたパラレルワールドを広げる、という手法】

2010年春のアメトーークSP、家電芸人の折、ペナルティーのコンニャクのような顔をしたサッカー馬鹿が、
雨上がり決死隊
をもじって
「アバタがり決死隊」
と言ったら、
「変なもじりをするな!」
とまわりの大衆に批判され、いじめられていたが、村上哲也だったら、
「宮迫キャメロンいいぞ!」
と、アバターもじりを重ね、アバターもじりネタをあと2〜3個重ねる方向に持って行っただろう。


われわれには二つの道がある。第一に、変な喩えや変な言葉遊びを拒絶し、否定し、すぐ別の話に転じるというパターン。第二に、奇抜な喩えや言葉遊びを受け入れ、その喩えや言葉遊びによって生じたパラレルワールドをさらに詳細に構築するパターン。村上哲也は第二の道を擁護する立場であり、論文「笑いとメタファー、キャッチャーとピッチャー」(2010年冬に発売される新文学03という批評誌に掲載予定)で、それを理論的に擁護した。井山弘幸も『笑いの方程式』(化学同人、2007年)で第二の立場を擁護している。音楽でサビを何回も繰り返すパターンと、あまり繰り返さずにすぐ曲が終わるパターンとでどちらが好きかは、好みが分かれるように、どちらの道が良いかは、時と場合にもよるし、趣味の問題でもあるので、好みは分かれる所で難しい問題だが、村上哲也は基本的には第二の道を擁護していく。


【ペナルティ論】

良いフォークボールもキャッチャーが取ってくれなかったらただの暴投になるように、良いボケもまわりの対応次第では、それを言った人を滑らせることもできる。団体競技は必ず嫌みを言ってきたり、批判してきたり、いじめてくる性格の悪い人間が一人はいるものである。特に先頭集団を走りすぎると、今回のペナルティのサッカー馬鹿のように叩かれる、マリオカートで先頭を走っていると甲羅をぶつけられるように、松本人志大日本人』(2007年)の主人公が大衆から石を投げられるように。サッカーでいえばユニフォームを引っ張られるようなものだ。相方のスベリキャラの毛深いゴリラにも足を引っ張られているサッカー馬鹿は、コンニャクのような顔をしている。顔面にペナルティを抱えているペナルティは、「コンニャクとゴリラ」か「サッカー馬鹿とゴリラ」にコンビ名を改名すべきだろう。女性モデル誰もが太宰治好きキャラで売っているように、ペナルティのゴリラがスベリキャラで売り出しているように、ペナルティのコンニャクはこれからもサッカー馬鹿キャラで売り出していき、得点王を目指してもらいたい。

【2010年のトップランナー・オードリー論】

やはりお笑いはスポーツだ。松本人志ラーメンズ小林、バカリズムのような人見知り・人間嫌い・人間不信の人は、週刊少年ジャンプ的な、男の友情スポーツ物語は無理なので、集団のスポーツプレーは向いていず、一人で緻密に作品を練り上げるクリエーターになるしかないのだろう。一人で緻密に作品を作るクリエーターは、やはり一人でできるスポーツを好きになる傾向にある。松本人志、オードリー若林、そして三島由紀夫個人競技・ボクシングをこよなく愛した。オードリーはおそらく人見知り・人間嫌い・人間不信タイプなので、自分達だけで自由にやれるラジオが天職なのだろう。


2000年代最高のラジオ番組が松本人志『放送室』だとしたら、
2010年代最高のラジオ番組は『オードリーのANN』だ。


オードリーは比喩・喩え話のうまさ、話のリズム・強弱、演技力などほぼすべての項目で2010年現在先頭集団を走っている、野球で言う打撃、守備、走塁すべてで先頭集団を走っているイチローに相当する。イチローが打席に入る前にルーティーンを欠かさないように、オードリー春日も、漫才に入る前に独特のルーティーンをして、全人類に衝撃を与える。イチローのプレーすべてが美しく全人類に快感を与えるように、春日の声が奏でる音楽は美しく、逸楽の塊だ。オードリーはメタ認知力、すなわち自分の喋りを客観的に分析する力がある。春日の声は人間の脳に快感を与える、というテレビ番組で行った分析があるが、おそらく本当だ。彼らは自分の喋りや立ち位置を常に分析しており、人間の脳に快感を与えるような喋り方を知っている。オードリーの使う言葉・笑いの手法がいかに優れているかは、また別の機会に論じることにする。東浩紀が日本のデリダ論を牽引しているように、レイコフが世界のメタファー論を牽引しているように、日本を代表する評論家・村上哲也は日本のオードリー論を牽引していく。

「ゼロ年代の笑いの構造」『新文学02』(2009年)
「笑いとメタファー、キャッチャーとピッチャー」『新文学03』(2010年)
村上哲也の講演の代表作『生態系論』